主よ自由をお与えください 作     りすな   原案・監修  竜子   英国。農夫なる異名を持つ王の時代。とある教区教会に多くの信徒が司祭の言葉を聴くために集まっていた。そんな人々の中に一人の少年が見える。歳はわずか六歳と幼い。しかし、切れ長の瞳と輝くような金色の髪から、将来彼が婦人の注目を集める美男子となるであろうことは容易に想像できた。シルクの上等なシャツを纏っていることから、高貴の出であることが伺える。彼の名はセオドアといった。  教会の奥では司祭が聖書の教えを説いていた。セオドアは行儀よく座って司祭を注視している。 「腫瘍だらけになったヨブを見て、彼の妻はいいました。『あなた、まだ自分を全うするのですか。神を呪って死ぬべきではありませんか』しかしヨブはこういいました。『お前が語ることは愚妻の言葉と同じだ。私たちは神様から幸を授けられるのだから、災いも受けるべきだろう』と。ヨブはその唇で罪を犯すことはなかったのです……」 (神様から、僕たちは何もかも与えられているんだ)  セオドアは曇り一つない瞳を向けて司祭の言葉をきいていた。  丘の上に一件のレンガ造りの建物があった。スウィフト家――この土地を代々治めてきた貴族の住まいである。  セオドアがスウィフト邸の廊下を歩いていた。現当主の嫡男である彼は、いずれこの家のあるじとなる立場にあった。  セオドアがちらりと窓の方を見やる。眼下には庭園が広がっていた。花や木を計画的に配置した庭ではなく、芝生や林を庭園内に配置して自然の風景をそのまま取り入れたような作りとなっている。これは現在貴族の間で流行している風景式庭園と呼ばれるものであった。  セオドアの視線の先に上の階へと上がる階段があった。そして、その陰に何かが隠れているのを見て取れた。好奇心がセオドアの心中に忍び寄り、彼を支配する。隠れている何かの正体を解明するという誘惑に抗えず、セオドアは階段の陰へと足を向けた。  階段のわきに到達したセオドアが見たものは、金色の毛髪をした女性の後ろ姿だった。 「何してるの?」  セオドアが金髪の背中に問いかけた。 「はっ。見てわからない? 隠れているのよ」  呆れたような声でその女性はこたえた。こちらに背を向けたままだ。 「でも、僕に見つかっちゃったね」  セオドアの言葉を聞いて女性は嘆息する。 「わたしが隠れているのは家庭教師からよ。アンタじゃないわ。っていうか、誰よアンタ?」  金髪がセオドアの方を向きながら訊ねた。歳はセオドアよりも十歳ほど上であろうか。セオドアに負けず整った顔立ちの少女である。襟もとが開いたドレスを着ており、白くて染みの無い肌を女性定番の装飾品である珊瑚のネックレスで飾っている。そのような身なりから、その少女がセオドア同様に貴族の子女であることが伺えた。 「僕はテディだよ」  セオドアが少女にそう自己紹介した。彼のことを愛称で呼ぶ母親に倣ってのことである。 「テディ?」  怪訝そうな顔で少女がいった。耳にしたことがない名なのだろう。少女がじっとセオドアの顔を見つめる。セオドアはそんな彼女の行動を黙って受け入れていた。少しして、少女は何かを思い出したように声をあげた。 「もしかして、セオドア?」 「うん。お姉さんは、エリザベスだよね。お父様の妹の……」 「そうよ。へえ、アンタ、セオドアなの! ちょーっと前に見たときはまだこんな小っちゃなベイビーだったのに! 今だと背丈はわたしの胸の辺りくらいかしらね」  エリザベスが手をかざしてセオドアの身長を測るようなしぐさをした。 「そんなにびっくりした?」 「そりゃあね。知らなかったわ、ベイビーってすぐに大きくなっちゃうのね」  どうやら冗談ではなく、エリザベスは本心からそういっているようだった。 「そういえば、会うのは初めてだよね。食事のときはいつもいないし……」  毎晩、デザートの時間にセオドアは父と同席している。そこにはエリザベスの席も用意されているのだが、彼女が座っているところをセオドアは見たことがなかった。 「そうよ。食事の時間は謹慎処分中だもの、わたしは。勝手に外に出かけたり、勉強をサボっているとそうなるのよ」  なぜかふふんと鼻を鳴らしながら、エリザベスがいった。 「いつも外に出かけたりしてるの? 勝手に?」 「そうよ。今だって、家庭教師から逃げるために隠れてたんだから」  エリザベスがいたずらっぽい笑顔を見せた。セオドアは彼女の行動が理解できず、首をかしげた。 「どうしてそんなことするの?」 「どうしてですって? じゃあアンタは何故、大人たちのいうことを黙ってきいているのよ?」  セオドアは戸惑った。彼にとって大人のいう事、特に父に従うことは当然のことであった。それに対して疑問を抱いたことなどなかった彼にとって、エリザベスの発言は理解の範囲を超えたものである。そんな彼女の言葉に恐れと威圧感を感じたセオドアは少し後ずさりながら、 「そうしないと、立派な大人になれないから……」  と消え入りそうな声でこたえた。 「立派? 家に縛り付けられることが立派ですって? わたしはね、自由になりたいの。自由ってわかる?」  熱っぽくまくし立てたエリザベスを前に、セオドアは目をぱちくりさせることしかできなかった。エリザベスはそんな彼を見て少し落ち着いたのか、声を落として言葉を続けた。 「貴族の長男のアンタはこの家を継ぐ、ただのご令嬢のわたしは旦那さまを見つけて嫁ぐ。そう決められてるの。そんな決められた人生、何の意味があるっていうの?」 「でも、それが神様が与えて下さった運命なんでしょう?」  セオドアはエリザベスを怒らせてしまったと思い、なだめるための返答を自分の中から引っ張り出した。少なくとも、本人はそのつもりだった。そんな彼の返答を聞いたエリザベスは両手を広げ、肩をすくめた。 「アンタ、神様と直接お話したことあるの? ああ、神様の声って直接聞いちゃいけないんだっけ。どっちにしてもなぁーんにも教えてくれない、そんな神様に何の意味があるの?」  エリザベスのいう通り、神の声を直接聞いたと発言するのは許されることではなかった。もしそのようなことを口にすれば、死を以て償わねばならないかも知れない。それほど畏れ多いことなのである。 「だから、先生や神父様、お父様やお母様が、教えてくれるんだよ。神様のこと」  セオドアが諭すようにいった。まるで自分よりも年少の子供に教えてやるかのような口ぶりである。そんな彼にエリザベスは詰め寄った。 「あのね、セオドア。ホントはね、大人も何もわかってないのよ。なぁんにもね! 大人たちが教えられるのは自分が経験したこと、それだけなのよ!」 「そ、そんなこと……」  セオドアはたじろいだ。 「……だからね、わたしは自分で経験したいの。誰かに教えられるだけなんてまっぴら。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の身体で感じたいの!」  胸に手を当てながらエリザベスがいった。少々興奮気味な叔母を見ながら、 (そんなの、許されない)  とセオドアは思った。自分たちがしてはならないこと。それは幼いセオドアにさえわかっていることであった。この屋敷のあるじとその一族には立場というものがあるのだ。それゆえにできることもあれば、できないこともあった。しかし、自分よりずっと年長のエリザベスはその一切を無視しようとしているのである。 「アンタのように、大人たちのいうことを聞いていれば失敗もなく生きていけるかも知れないわ」  窓の外に目を向けながら、エリザベスがいった。 「うん。お父様だってそのために……」 「でも、そんなのはごめんだわ。わたしは自由になりたいのよ。そのためなら、失敗なんて怖くない。大人の話なんて聞かないわ。そう、なんでも自分でやって、自分で決められる、自由になりたいの!」  エリザベスはまるで睨みつけるようにセオドアの瞳を見る。セオドアは彼女の迫力に負け、ついに立っていることができなくなり、へなへなと尻もちをついてしまった。  セオドアにとって父親は絶対的正義であり、それを疑問に思うことなどなかったし、周囲にもそのような者はいなかった。しかし、エリザベスは自由のためにセオドアの絶対的存在を否定している。正しいと思っていたものをそうではないといわれたセオドアは混乱していた。エリザベスの意思を肯定することも否定することも、まだ幼い彼にはできなかったのだ。 「お嬢様!」  階上から声がし、四人ほどの女性たちが降りてくる。スウィフト家の使用人であった。大方、エリザベスを探していたのであろう。 「やばっ! じゃあね、セオドア!」  セオドアの頭を小突いて、エリザベスは駆けだす。スカートの端を抱えるようにつまみ上げながら廊下を走る貴族の令嬢をセオドアが見たのは、これが最初で最後であった。 「アンタもこの家に縛り付けられるのが幸せなのかどうか、よぉく考えることね!」  そういい放ちながら、エリザベスは廊下の端まで駆け抜け、どうやったのか、窓の鍵をこじ開けた。そのまま彼女は片手をつき、柵を飛び越える少年のような動きで窓の下へと飛び降りた。それを見た使用人たちが悲鳴を上げる。 「嘘、ここ、二階ですよ……?」 「とにかく、お嬢様を探さないと!」  使用人たちが慌てて階段を下りて行った。セオドアはその様子を座り込んだまま見ていた。  使用人たちが外に出た後、再び階上から音が聞こえてきた。靴が階段を叩く音である。セオドアがそちらを見やると、彼がこの世で最も畏敬する人物――父親の姿が確認できた。まだ若いが、貴族らしい威厳を持った、堂々とした立ち居振る舞いの人物である。セオドアは慌てて立ち上がり、埃を払った。父親は階段を下りきるとセオドアの横に立った。顔は息子に向けられていない。 「お父様、なぜ神様は僕たちにお声を届けて下さらないのでしょうか」  父親が横目でセオドアを見る。 「エリザベスが、そういったのか?」  それだけいって、父親は視線をセオドアから窓の外へと移した。恐らく窓の下ではエリザベスの捜索が続けられていることだろう。外を見やる父に、うつむきながらセオドアはこたえる。 「はい。神様はお話して下さらないから、自由になって自分で確かめたい、と……」  父親は何もいわない。セオドアはきゅっと握り拳を作り、おずおずと顔を上げ、自分の父を見上げた。父親の視線はまだ窓の外に向けられていた。セオドアは意を決したように、 「お父様、自由とはなんなのですか?」  と訊いた。 「そんなことを人前で話すな」  冷水のような言葉だった。それを浴びせられたセオドアは、びくりと身を震わせて再び下を向いた。父親は息子から視線を外し、再び窓の外に目を向けた。少しだけの沈黙があったのち、父親がやおら口を開いた。 「神様は大主教様や神父様方の口を通じて語りかけて下さる。言葉として届かずとも、神様のご意志はこの世界に顕れている。神様のお声を直接聞こうなど異端者の発言だ、忘れろ」  セオドアは父親をじっと見て、それからエリザベスが飛び降りた窓を見た。その後、庭園が広がる我が家の庭に視線を移した。芝生と木々が一見無造作に、実際は計画的に配置されている。まるで山を切り取って持ってきたような景色がそこには広がっていた。  階上から再び足音が聞こえてくる。父親のそれとは異なり、大人しさと淑やかさを感じさせるものだった。やや年配の使用人が降りてきたのである。 「セオドア。お前はエリザベスと違って、お茶の時間は守れるだろうな?」  父親が使用人を一瞥する。使用人はスカートの端をつまんで深々と一礼した。セオドアは戦慄する。行かねばならない場所があることを、自分で気づく前に父親に指摘されてしまったためである。慌ててセオドアは片足を引いて一礼する。使用人に促されると、彼は黙ってそれに従った。 (エリザベスが間違っているから、神様のいっていることがわからないんだろうか。彼女が自由を欲しがるのは、誰がそうさせているんだろう?)  自分の周囲のできごとが神の意思の顕れであるというのなら、エリザベスが自由を求めるのもまた、神の意思といえるのではないだろうか。 (神父様がおっしゃることを聞いていれば、僕は大丈夫。お父様が言う通り、今までそう思ってた。でも……)  セオドアは生まれて初めて父の言葉に疑問を抱いた。  ふと、セオドアは歩きながら窓の外を見た。丁度一羽の小鳥が羽ばたいて空へと飛んで行くところだった。白い鳥であったが陽光を受けた翼は黄金色に輝いている。 (エリザベスに似ている)  鳥の翼の色と彼女の髪の色が似ていると思ったのである。 (……そういえば僕も、エリザベスと髪の色が同じだ)  セオドアは鏡で見た自分の姿を想像し、エリザベスの隣に並べてみた。すると、彼女は突然駈け出してセオドアのもとから去って行ってしまった。そんな彼女の背中を、空想の中のセオドアは何かいいたげに見つめていた。